わたしたちのあゆみ

1992年(平成4年)元代表である押川剛がトキワ警備を起業

(株)トキワ精神保健事務所の母体であるトキワ警備は、創業者である押川剛が、1992年に起業しました。大学在学中の警備業のアルバイト経験を活かし、当初は交通誘導や身辺警護等を行う、いわゆる普通の警備会社でした。

ところがある日、目をかけていた従業員の一人が統合失調症を発症し、故郷に帰ることになりました。しばらくして彼の家族に様子を尋ねると、「私たちの手には負えず、近所の方々に頼んで、拘束して病院に連れて行ってもらった」との返事がありました。

「最後まで病院に行く事を拒んで大変だった」という話を聞き、押川は「せめて病院だけでも、一緒に行けばよかった。自分が病院に行こうと話をしていれば、納得して行ったかもしれない…」と、深く後悔しました。また、勉強もスポーツもできて、仕事も順調にこなしていた彼が、なぜ心の病になったのか? 疑問は尽きず、精神疾患にまつわる書物や文献を読み漁る日が続きました。

そして押川は、家族ですら病院に連れて行くことができない、病識のない精神障害者が数多くいるという現実を知ることになります。当時、家族の手に負えない患者は、警備会社やタクシー会社によって、拘束され強制的に病院に連れて行かれていました。まだ「移送」という言葉もなく、「搬送」と呼ばれており、まるで〝物〟扱いであることに、強い憤りを覚えました。

1996年(平成8年)精神障害者移送サービスを開始

精神障害者を医療につなぐにあたり、押川が最もこだわったのが、「患者さんを説得し、本人の同意のもと医療につなぐ」こと、いわゆる説得移送でした。それは日本で初めての試みであり、精神科医療に携わる人たちの常識を覆すものでもありました。

家族がどんなに試みても、説得して本人を病院に連れていけない時点で、すでに家族関係は崩壊しています。その状態で、拘束して無理やり病院に連れて行ったところで、患者さんが素直に病気を認め、医師の診察を受けるようになるはずがありません。むしろ本人の心は傷つくだけであり、入院後や退院後の家族関係は、ますます悪化するでしょう。

説得移送を開始した当初は、本人の本音を聞き出すと同時に、普段は言えない家族の思いも伝えることで、「家族の絆を取り戻す」ことができるのではないかと考えていました。子供の頃から「人間」という存在に興味が尽きず、真面目な生徒から不良少年まで、どんなタイプの友人とも臆せずに付き合ってきた押川にとってみれば、本人と家族の間に立ち、なおかつ医療機関とのパイプ役になる自信もありました。

サービスを開始すると、事務所の電話が鳴り止まないほど依頼が殺到し、中には、刃物を持った危険な患者や、糞尿にまみれた部屋、廃墟と化した家、まったく心ない家族など、すさまじいケースも多々ありました。あるいは、移送前の調査によって、対象者が入院するほどの状態ではないことや、明らかに家族の言い分がおかしいことが発覚して、移送を打ち切ったケースもたくさんあります。

これまで説得により医療につないだ患者の数は1000人を超え、5000件以上の家族からの相談に応えてきました。実際に現場での経験を積み重ねるうちに、押川は、当初抱いていた「家族の絆を取り戻す」ことの難しさを実感します。しかし一方で、説得により本人を医療につなげることが、もはや死に体となっている家庭にとっては、唯一の突破口になるという確信を深めてもいました。押川という第三者が介入し、本人と人間関係を構築することが、一筋の光となることを理解したのです。

同時に、「精神障害者移送サービス」は、各方面から注目を集めることとなりました。医療機関や行政機関だけでなく、家族会などからも問い合わせが相次ぎ、中には人権団体からの糾弾もありました。一方で、「霞が関で話題になっているから」と言って取材に来た新聞記者もいました。

それまで精神障害者の移送といえば、民間の警備会社が、水面下で強制拘束移送を行っているのが現実でした。押川が「説得による精神障害者移送サービス」を大々的に打ち出したことにより、その波紋は行政にも広がっていったのです。

こういった経緯をふまえ、押川は、精神障害者とその家族をとりまく悲惨な実態や、その苦しみを広く社会に訴えることの必要性を感じるようになりました。社会に議論を巻き起こすためには、誰かが犠牲にならなければなりません。押川も弊社も、世間の偏見や誹謗、中傷も想定内のうえで、この問題に取り組んでまいりました。

そして、1999年(平成11年)精神保健福祉法改正により、第34条(医療保護入院のための移送)が制定されました。この制度は、「医療保護入院が必要な状態にある精神障害者、もしくはその疑いがある人を精神保健指定医が診察し、精神障害者と判断し、ただちに入院させなければ、自傷他害行為に至るような場合で、入院について本人の同意が得られないと判定されたものについて、家族の同意を得て、都道府県知事の責任で(実際には都道府県職員が)精神科病院に移送する(応急入院の場合は家族の同意も不要)」というものです。

ただしこの制度の実施については、各自治体に任されています。行政による移送がまったく行われていないわけではありませんが、件数は少なく、身寄りのない人や、生活保護者が優先されています。一般家庭の問題に関しては、家族がいくら相談に訪れても選択肢の一つとして提示されることすらなく、形骸化しているも同然といえます。

2000年(平成12年)に入ると、1月には新潟少女監禁事件が発覚、続いて5月には佐賀県の西鉄バスジャック事件が起こりました。患者と家族の問題がクローズアップされ、医療機関や行政の対応についても、問題が提起されました。押川のもとへは、「医療機関や行政機関ができないことをやっている」と、マスコミからの取材や、講演依頼が殺到するようになりました。

講演会に登壇する押川

 さらには、民間の精神障害者移送サービスの是非について国会で取り上げられ、当時の森喜朗首相の答弁では、利用については家族の任意に委ねられるとしています。

押川が、説得による「精神障害者移送サービス」を創始したことで、この種の問題に認知に大きく貢献してまいりました。また、メディアを通じて現実を社会に訴えることの必要性を強く感じるようになり、執筆や映像分野での取材活動を精力的にこなしていくことを決意しました。

2001年(平成13年)初の著書「子供部屋に入れない親たち」を上梓

精神障害者移送サービスを始めた当初は、家族が本人の状態に気付いていながら、精神疾患を「恥」と捉え、表沙汰にしたくない一心で何年も隠し続けた結果、病状が悪化してしまった…というケースが圧倒的多数でした。

家族に同行して保健所や医療機関に相談に行くと、幻覚や妄想が激しいことや、その生活状況などから「統合失調症」と診断されることがほとんどであり、それゆえ、医療につなぐことさえできれば、適切な治療を受けることができました。

そこで、心を病んでしまった人と、その人をとりまく環境…家族、精神科医療の現実などを、余すことなく書き記しるしたのが、押川初の著書「子供部屋に入れない親たち」でした。

この問題に悩む家族からは絶大な支持を得る一方で、週刊文春に批判の記事を書かれるなど、いろいろな意味で大きな反響を呼びました。

この年の6月には、大阪教育大付属池田小事件が発生しており、触法精神障害者について、さまざまな議論が巻き起こりました。この事件をきっかけに、2005年(平成17年)には、心身喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(医療観察法)が施行されています。

2002年(平成14年)自立支援施設「本気塾」設立

わたしたちが精神障害者移送サービスに取り組んで以来、精神科医療をとりまく環境は大きく前進してきました。

2002年には「精神分裂病」の診断名が「統合失調症」へ変更されるなど、精神疾患に対する社会の認知も広がり、統合失調症やうつ病といった病気については、家族が積極的に動けば、保健所や医療機関、警察などが協力して医療につなげてくれるような仕組みもできあがりました。今では民間の移送会社も増え、さほど高額な費用をかけずとも移送が可能になりました。

それと反比例して増えてきたのが、精神病質・パーソナリティ障害とよばれる人たちです。家族や周囲の人々は、その対応に疲労困憊し、親子間の殺戮といった事件も挙げればきりがありません。

わたしたちは、精神障害者移送サービスを通じて、20~30代という年齢で、精神病質・パーソナリティ障害のために就労できない、社会に身をおけないなど、家族を巻き込んで八方ふさがりになっている方を、たくさん見てきました。

そこで、「家族以外の他者との人間関係を構築する」ことを理念として設立されたのが、自立支援施設「本気塾」です。本気塾ではこれまでに、多くの若者が共同生活を行ってきました。

依存の対象であった家族のもとを離れ、同じような境遇の仲間と一緒に生活することが、社会参加のための訓練となります。一人きりでは難しくても、スタッフや他塾生の支えにより、学校に通ったりアルバイトを経験したりしながら、社会の厳しさや他者との関わりを体感します。

こうして、家族以外の人たちと絆や信頼関係を結ぶ心が育まれれば、それこそが社会で生きていくことへの自信につながります。卒塾後の人生設計については、本人が途中で挫けることのないよう、本人の資質や性格、この国の情勢なども含め、長い目で考えていきます。

過去には、医療機関の調理師として正社員雇用、自衛隊入隊(幹部候補生、一般曹候補生)、手に職をつけるための進学(看護学校)など、夢を見つけ、それを叶えていった若者がいます。

※ 2021年現在、本気塾の塾生は募集しておりません。

2015年(平成27年)『「子供を殺してください」という親たち』刊行

2014年4月、改正精神保健福祉法が施行され、国(厚労省)は、「入院医療中心から、地域生活中心へ」を謳い、「地域移行・地域共生」が本格的に進められるようになりました。精神保健福祉法においても、保護者制度の条文が削除され、保護者(家族)が、患者に治療を受けさせる義務はなくなりました。

しかし現実には、地域で精神障害者を支える体制が整っているとは言いがたく、とくに対応困難な精神疾患患者は、どの専門機関からも門前払いされるような事例が増えています。社会的にみても、精神科に入通院歴のある人物や、過去の経緯から精神疾患が疑われる人物の起こす事件(家族間の殺傷事件、近隣トラブル等)を耳にする機会が増えています。

精神障害者(あるいはその疑いのある者)とともに暮らす家族からの相談に真摯に耳を傾け、必要に応じてスムースに医療につなげるための、行政主体の制度や仕組みを構築しない限り、こういった事件は増える一方でしょう。それこそが、「精神障害者は危険だ」「こわい」という無用な差別にもつながりかねないと、わたしたちは危惧しています。

今後は、家族だけでなく社会に向かって、より声をあげていかねばならないと感じています。その一環として2015年(平成27年)7月には、押川による著書「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)を上梓、2017年3月には、その第二弾となる子供の死を祈る親たち (新潮文庫)も刊行されました。

2017年からは、コミカライズ版『「子供を殺してください」という親たち」』(新潮社バンチコミックス)の連載も開始しています。

家族の苦しみや精神保健分野の現状をつまびらかに記述するだけでなく、具体的な解決策も提示しています。家族だけでなく、この分野に関わる多くの方々に、ぜひ手にとっていただきたいと思います。